2011年02月17日
いざという時の自分
昨日の日記からまた別の話を思い出した。
思い出話ならいくらでもできるが、聞かされる方はたまったものではないかもしれない。
でも話します。しかも、長い。
20代の時、私はとある会社に中途採用で入社した。
私が初めて所属した部署の私の上司が大山課長(仮名)だ。
大山さんは30代後半の独身男性、少し小柄で少し太め、気さくで話好き、そしてよく笑う人だった。
私はすぐに大山さんと出会い打ち解け、仕事を離れれば普通の友達のようになった。
大山さんと私、それに社内の数名、おもに私と同年代の気の合う同士で、よく食事に出かけたものだし、大山さんの家に集まってわいわい騒いだりもした。
楽しい日々だったが、2年ほどして大山さんは会社をやめた。自分で会社を興すためだった。
大山さんはその仕事を始めるに当たり、社内で親しくしていた2名の男性と私に、その話に乗らないかと持ちかけた。
池袋に小さな事務所を借り、そこを設立準備室とした。
私はとりあえず事務作業を手伝うことになり、大山さんからパソコンを借りて、メーリングリストを作成していった。
大山さんはその仕事のために自宅マンションを売ってお金を作ったらしい。背水の陣というやつだろう。
大山さんが会社をやめた頃、私のいた部署は御茶ノ水に移転しており、大山さんが声をかけたほかの2人も、御茶ノ水の事務所勤務だった。
私たちは仕事が終わるとよく、池袋の事務所に集まっていろいろなアイディアを出し合った。
そのまま池袋のビアホールに行き、深夜にみんなでタクシーに相乗りして帰宅したこともある。
また、大山さんと私の二人だけで池袋で待ち合わせて、一緒に帰ったことも。
大山さんはいつも特急券と缶ビールを私の分まで用意してくれて、所沢までの一区間、私たちは音楽や小説の話をして過ごしたものだ。
しかし結局、起業はなくなった。
資金を提供した大山さんは当然社長になりたがり、ほかの2人は使われる立場になるのを嫌がったためらしい。
大山さんは別の人と二人で、当初のアイディアとは別の仕事を始めた。
私が大山さんに言われたのは、自分と一緒に仕事をしても苦労するだけだ、というものだった。
その後20年もたち、いつの間にか大山さんの連絡先は分からなくなっていた。
そんなある日、私が最初に配属された部署の女性の先輩と、電話で話す機会があった。
先輩と話すのもずいぶん久しぶりなので、お互いの近況を報告し合ったあとは、当然のように、会社のあの人は今どうしているかというような話になった。
その中で大山さんの話も出てきた。
そういえばねえと先輩。大山さんにお金を貸しているのだけど、どこにいるか分からなくなっちゃったんだよね。大山さん、目を悪くしたみたいなんだけど、どこでどうしているんだろう。もうお金は返してもらえないかもね。
私は心底驚いて、先輩との援助を切った後、大山さんの居場所を知っていそうな人に電話をかけた。
大山さんが起業しようとした際に声をかけた中の一人で、彼はその後自分で会社を立ち上げ、数十人の社員を従えて日本と東南アジアで仕事をしている。
聞いていた会社の番号に電話して、こちらでもしばらく近況報告し合った後、もし知っているなら大山さんの連絡先を知りたいと話した。
黙っているべきかとも思ったが、実は大山さんは目を悪くしているらしいこと、そのためもあってか、大山さんにお金を貸している人がいることも話した。
すると彼は笑って言った。「俺も30万ほど貸してるんだよねえ」
彼は大山さんに対して、憐みの気持ちをもっているようだった。大山さんの居場所は分からない。お金のことは諦めているのだと言った。
結局、大山さんの居場所は今も分からないままだ。
借金は借金のままだ。
しかし私は大山さんが、元々平気で借金を踏み倒す人だったとは思っていない。
明らかな悪人も見た目で判断できる人ばかりではないだろうが、皆から善人と呼ばれる人がいざという時にどうなるのか、それはきっと自分でも分からないはずだと、その時に私は理解した。
いざという時にも、いろいろとあって、その大きな「いざ」の時には、善人だったはずの人の幾らかも大きな罪を犯すのかもしれない。
大きな「いざ」はもとより、小さな「いざ」もなく人生を終えたいと望むのかどうかは、人それぞれだろう。
いざという時、醜い自分を知ってしまうかもしれないし、逆に自分に新たな誇りを持てる、そのきっかけになるのかもしれないのだから。
思い出話ならいくらでもできるが、聞かされる方はたまったものではないかもしれない。
でも話します。しかも、長い。
20代の時、私はとある会社に中途採用で入社した。
私が初めて所属した部署の私の上司が大山課長(仮名)だ。
大山さんは30代後半の独身男性、少し小柄で少し太め、気さくで話好き、そしてよく笑う人だった。
私はすぐに大山さんと出会い打ち解け、仕事を離れれば普通の友達のようになった。
大山さんと私、それに社内の数名、おもに私と同年代の気の合う同士で、よく食事に出かけたものだし、大山さんの家に集まってわいわい騒いだりもした。
楽しい日々だったが、2年ほどして大山さんは会社をやめた。自分で会社を興すためだった。
大山さんはその仕事を始めるに当たり、社内で親しくしていた2名の男性と私に、その話に乗らないかと持ちかけた。
池袋に小さな事務所を借り、そこを設立準備室とした。
私はとりあえず事務作業を手伝うことになり、大山さんからパソコンを借りて、メーリングリストを作成していった。
大山さんはその仕事のために自宅マンションを売ってお金を作ったらしい。背水の陣というやつだろう。
大山さんが会社をやめた頃、私のいた部署は御茶ノ水に移転しており、大山さんが声をかけたほかの2人も、御茶ノ水の事務所勤務だった。
私たちは仕事が終わるとよく、池袋の事務所に集まっていろいろなアイディアを出し合った。
そのまま池袋のビアホールに行き、深夜にみんなでタクシーに相乗りして帰宅したこともある。
また、大山さんと私の二人だけで池袋で待ち合わせて、一緒に帰ったことも。
大山さんはいつも特急券と缶ビールを私の分まで用意してくれて、所沢までの一区間、私たちは音楽や小説の話をして過ごしたものだ。
しかし結局、起業はなくなった。
資金を提供した大山さんは当然社長になりたがり、ほかの2人は使われる立場になるのを嫌がったためらしい。
大山さんは別の人と二人で、当初のアイディアとは別の仕事を始めた。
私が大山さんに言われたのは、自分と一緒に仕事をしても苦労するだけだ、というものだった。
その後20年もたち、いつの間にか大山さんの連絡先は分からなくなっていた。
そんなある日、私が最初に配属された部署の女性の先輩と、電話で話す機会があった。
先輩と話すのもずいぶん久しぶりなので、お互いの近況を報告し合ったあとは、当然のように、会社のあの人は今どうしているかというような話になった。
その中で大山さんの話も出てきた。
そういえばねえと先輩。大山さんにお金を貸しているのだけど、どこにいるか分からなくなっちゃったんだよね。大山さん、目を悪くしたみたいなんだけど、どこでどうしているんだろう。もうお金は返してもらえないかもね。
私は心底驚いて、先輩との援助を切った後、大山さんの居場所を知っていそうな人に電話をかけた。
大山さんが起業しようとした際に声をかけた中の一人で、彼はその後自分で会社を立ち上げ、数十人の社員を従えて日本と東南アジアで仕事をしている。
聞いていた会社の番号に電話して、こちらでもしばらく近況報告し合った後、もし知っているなら大山さんの連絡先を知りたいと話した。
黙っているべきかとも思ったが、実は大山さんは目を悪くしているらしいこと、そのためもあってか、大山さんにお金を貸している人がいることも話した。
すると彼は笑って言った。「俺も30万ほど貸してるんだよねえ」
彼は大山さんに対して、憐みの気持ちをもっているようだった。大山さんの居場所は分からない。お金のことは諦めているのだと言った。
結局、大山さんの居場所は今も分からないままだ。
借金は借金のままだ。
しかし私は大山さんが、元々平気で借金を踏み倒す人だったとは思っていない。
明らかな悪人も見た目で判断できる人ばかりではないだろうが、皆から善人と呼ばれる人がいざという時にどうなるのか、それはきっと自分でも分からないはずだと、その時に私は理解した。
いざという時にも、いろいろとあって、その大きな「いざ」の時には、善人だったはずの人の幾らかも大きな罪を犯すのかもしれない。
大きな「いざ」はもとより、小さな「いざ」もなく人生を終えたいと望むのかどうかは、人それぞれだろう。
いざという時、醜い自分を知ってしまうかもしれないし、逆に自分に新たな誇りを持てる、そのきっかけになるのかもしれないのだから。
Posted by gyaos823 at 10:08│Comments(0)